【漢検・簿記・TOEIC】資格の王子様【バレンタイン企画】
冬の夜、帰宅路にて。
寒さに背中を押されながら、わたしは早足で歩いた。吐き出す息が月明かりに照らされて、白く揺れる。
(はあ、今日も疲れたなあ)
チラリと時計を見ると、時刻は午後8時。家について食事と入浴を済ませたら、あっという間に寝る時間になってしまう。
(平日は息抜きの時間もないよ! 勉強もしなくちゃいけないのに……)
わたしの頭によぎったのは、約1週間後に控えた資格試験のことだった。参考書に目を通したり、問題を解いたりはしたものの、完全に合格できる状態かと聞かれるとまだ不安が残る。
(──よし! 試験に向けて、少し勉強してから帰ろう)
ここから近いカフェだと、家の近くにチェーン店があったはず。でもチェーン店という性質上、いつも人で混みあっていて、あまりくつろげる環境ではない。
どこか他に、もっといい場所はないかなあ。そんなことを考えていた折のことだった。
「あれ──」
行く先の路地に差し掛かる、ひと筋の光。光の先を視線で辿っていくと、その正体は小さな喫茶店から漏れ出る灯りだった。
「こんなところに喫茶店なんて、あったっけ?」
新しくできたお店だろうか。それにしても、工事の気配すらなかったと思うけれど。
首を傾げながら店を覗く。外観は温かみのある木造で、こぢんまりとした店だった。
(あんまりお客さんも居なさそうだし、ちょうどいいかも)
わたしは扉にかかった『OPEN』の札に惹かれて、ドアを押した。かわいらしい鈴の音と共に入店する。
入ってすぐ目に入ったのは、壁際に備え付けられている暖炉だった。炉の中では本物の火がパチパチとはぜて、店内を明るくしている。その暖かさに思わず頬を緩めていると、横から声を掛けられた。
「いらっしゃいませ」
わたしに声を掛けてきたのは初老の男性だった。目尻に刻まれたシワが優しそうに見える。きっとこのお店のマスターだろう。
「1名様でしょうか?」
「あ、はい」
「かしこまりました。どうぞ、お好きな席にお掛けください」
穏やかなマスターの眼差しに促され、店内を見渡した。時間が遅いせいか、客はわたし以外にはいないようだ。暖炉に近い壁際の一人席を選んで、わたしは一息ついた。
(ふぅ……、温まる。ここなら静かだし、勉強も捗りそう)
「お客様。こちらお冷と、温かいおしぼりでございます。メニューはそちらに。お決まりになりましたら、ベルでお呼びください」
「わ、ありがとうございます。あの、おすすめのメニューとかありますか?」
「そうでございますね。当店ではオリジナルブレンドのハーブティーがおススメでございます」
「ハーブティー、ですか」
「ええ。リラックス、集中力向上、気分の高揚──
お客様のご希望に合わせて、ブレンドすることも可能でございます」
「へえ~! じゃあ集中力アップで、お願いできますか?」
そう言うと、マスターはにっこり笑った。
「はい。かしこまりました」
──数分後。
「こちら、特製ブレンドのハーブティーでございます」
「わあ……ありがとうございます!」
目の前に置かれたティーカップから、爽快なハーブの香りが立ち上る。艶やかな琥珀色をした液体は、まるでそれ自体が光を放っているかのようだった。
(すごくいい香り……。頭がスッキリしてきたし、勉強も捗るかも!)
いよいよやる気が出てきたわたしは、テキストを開いた。
さて、今わたしが勉強している資格は──
(漢字検定だよね。よし、頑張るぞ)
わたしはテキストを広げ、ノートに書き取りを始めた。間違えてしまった問題には印をつけておいて、反復して練習する。そんなことを続けていると、不意に声をかけられた。
「──毎日頑張って、偉いですね」
「え……」
突然のことに、思わず顔をあげる。声のした方を見ると、わたしの隣の席にはいつの間にか美しい青年が座っていた。若々しい見た目とは裏腹に、落ち着いた優しい眼差しが印象的だ。しかしわたしと目が合うと、彼はハッとしたように口元を抑えて、
「あっ……! すみません。お勉強の邪魔をするつもりはなかったのですが、つい話しかけてしまいました」
「いえ、気にしないでください」
わたしが言うと、ほっと胸を撫でおろして微笑む。
「良かったです。もうすぐ試験ですものね」
「え……、たしかにそうですけど。
どうして試験が近いって分かったんですか?」
「あっ! ええと、それは……そうやなあ……」
(そうやなあ?)
「もしかして、アナタも漢字検定を受けるんですか?」
「! ──ええ、まあ。そんなところです」
彼はこくこくと首を縦に振った。
そっか、この人も受験者なんだ。
「すごい、偶然ですね。ビックリしちゃった」
そう言うと、彼はまるで花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「偶然……。ええ、ええ。私とあなたは偶然ですとも。私にとっては、干天の慈雨とも言えますが」
「かんてんのじう……?」
「いえ、その──もしよければ、私と一緒にお勉強しませんか?」
「えっ、良いんですか?」
「ええ。漢字について、一緒に勉強してくれる友人が欲しいと思っていたんです。あなたさえ良ければ、ですが」
まさに棚から牡丹餅のような提案に、わたしは頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
(一人で勉強するのもそろそろ心細かったし、嬉しいなあ)
すると彼は頬を紅潮させて、
「良かった! お勉強、一緒に頑張りましょうね」
「は、はい……!」
(顔がキレイすぎて、なんだか緊張しちゃうなあ)
「うん、良いお返事です。頑張りに関しては、なんの心配もないようですね」
「え?」
彼は温かな視線でわたしの手元を見ながら、自分の手の側面をとんとん、と指さした。
「ここ。シャーペンの文字と擦れて、真っ黒になってます」
「あっ……! すみません、汚くて」
(うう、恥ずかしい!)
「謝らないでください。それだけ熱心にお勉強してくださった証ですから、むしろ嬉しく思います」
「ありがとうございます……?」
「ええ。でも、あまり無理はなさらないで。今日はそろそろ切り上げてはいかがでしょうか」
促されて時計を見ると、たしかに帰るには丁度いい時刻だ。
「あっ、本当だ。もうこんな時間……」
目の前の彼のことが気になったが、わたしは荷物をまとめて帰り支度をした。
「じゃあ、わたしはお先に失礼します」
「ええ。私はもう少し紅茶を楽しんでから帰ります。
名残惜しいけれど──どうかお気をつけて」
「はい、今日はありがとうございました。
また会えるといいですね」
「……!」
社交辞令なんかじゃなく、心の底からの言葉だった。彼は驚いたように目を丸くしていたが、すぐ破顔して
「ええ、きっと。あなたがここに来てくだされば、きっと会えます」
と、まるで言葉を噛みしめるように言った。
店の外は、さっきまでの温かさが嘘のように寒い。しかし今日出会った彼のことを思い出すと、寒さがほんの少し和らぐ気がした。
〇
次の日の夜。わたしは、またもや昨日と同じ喫茶店の前に立っていた。
(あの人、今日もいるかな……)
やや緊張しながら、店の扉を押す。入った瞬間、冷えた身体にじんわりと染み入るような温かさに包まれた。
「いらっしゃいませ。またのご利用ありがとうございます」
「ハーブティーが美味しくて、また来ちゃいました」
「お好きな席にお掛けください。メニューは前回と同じものでよろしいですか?」
「はい、お願いします!」
初老のマスターに迎えられながら、わたしは店内を見回す。わたし以外、誰もいなかった。
(さすがに毎日はいないよね……)
少しだけ残念に思いながらも、机の上にテキストを広げる。
ハーブティーも飲んで、やる気はじゅうぶんだ。
(よし、頑張ろう!)
今日は苦手分野を中心に追い込むぞ。そう決意して、数十分後。
(──と、思ったけど……やっぱり辛いなあ)
「う~ん──ん!?」
問題を解く手を止めて身体を投げ出すと、視界に入ってきた隣の人と目が合った。わたしの横顔をジッと眺めていたのは、昨日出会った彼だった。彼は頬杖をつきながら、相変わらず優しい眼差しでわたしを見つめていた。
「び、びっくりした……。すみません、気づかなくて」
「いえ、気になさらないでください。私も声を掛ければ良かったんですが、あなたの頑張るお顔につい見惚れていました」
「えっ」
思いがけないセリフに言葉を失った。少しキザだけど、王子様みたいな彼が言うと妙な説得力がある。思わず呆けていると、彼はみるみる赤くなり、とうとう両手でその顔を隠してしまった。
「も、申し訳ありません! 口に出したものの、やはり恥ずかしくなってしまいました……」
「いえ、全然違和感はなかったというか。
あまりにも似合ってたので、つい納得してしまって」
「心の底から思っているのに、いざ直接伝えるとなると照れてしまうものですね」
まだ赤い耳を抑えながら彼ははにかんだ。その莞爾とした笑みに、今度はこちらが照れてしまいそうになる。つい視線を目の前のテキストに落とすと、彼は心配そうに声を掛けてきた。
「お勉強、今日はあまり捗りませんか?」
「そ、そうですね。実は、暗記でつまづいてしまって」
「暗記、ですか?」
「漢字自体は覚えられるんですけど、『部首』とか『四字熟語』が全然覚えられないんですよね」
「ああ、なるほど……」
「特に部首が一番苦手で。だって『神』とか『草』とかはまだ分かりやすいけど、『問』の部首なんて『口』のほうだし、『主』に至っては上の『`』が部首なんですよ」
ほとんど愚痴のような泣き言になってしまったが、彼は「うんうん」と相槌をうちながら、こちらの話に耳を傾けてくれた。
「すみません。もうすぐ試験なのに、こんなこと言って」
「いえ、部首や四字熟語は多くの方が苦手な分野ですから。しかし漢字への理解がさらに深められる、楽しい分野でもあります。よければ私と一緒に、克服していきませんか?」
「ぜひお願いします……」
「良かった! そのまま嫌われてしまったら、どうしようかと」
彼はニコリと笑って、
「では、例えば『問』。この漢字の大体の意味はご存じですか?」
「はい。問いただすとか、聞くとか」
「ええ、その通り! 問には『口で聞きただす』という意味が含まれています」
「もしかして、だから『口』が部首なんですか?」
「おお、名推理ですね。そもそも部首とは、漢字の『意味』を表す部分のことを指します。まず漢字は意符と音符に分解できるのですが──そこまで掘り下げるとややこしくなるので、今は割愛しましょう。最初は『部首は意味』とだけ覚えてみてください。では、『聞』の部首は分かりますか?」
「部首は意味だから……『耳』ですか?」
「そう、大正解です!」
「なるほど。でも『主』は、どういうことなんですか? 主人や主題って言うんだし、『王』の部分が部首になるんじゃ?」
「それは『主』という漢字の成り立ちに秘密があります。あなたの言うとおり、主は『中心になるもの、つかさどるもの』を意味します。しかし主という字は、もともとは炎を表す漢字でした」
「炎、ですか……?」
「燭台と、その上でじっと火が燃えている様子です。『王』の部分が燭台──火の器となる部分で、『`』が燃えている火の部分ですね。なので主の部首は、炎を表す『`』の部分が部首になるのです。やがて炎のイメージは切り離されて、じっと留まっている様子だけが意味として残ったということですね」
「なるほど……。教えてもらわなかったら、一生知らなかったと思います」
わたしが感心していると、彼は安心したように笑った。
「良かった。漢字そのものの意味を調べてキチンと理解するほうが、ただ闇雲に覚えるより記憶も定着しやすいと思います。漢字は日常のなかでも目にするものですから、好きになればきっと、もっと楽しくなりますよ」
「はい、好きです!」
「え──」
「お兄さんのおかげで、前よりずっと漢字が好きになりました! 漢字ってすごく面白いし、分かるとどんどん楽しくなります! 本当にありがとうございます」
「え、あ、う……。そ、それは良かった──です」
彼は真っ赤になった耳を抑えながらも、はにかんだ。
「ほんなら──いや。それならもう、苦手な分野のお勉強も大丈夫そうですね」
「はい! もうすぐ試験だし、頑張ります」
「ふふ。あまり頑張りすぎないでくださいね? ゆっくりと知識をつけていくのが一番ですし、なにより継続が一番ですから。そして、これから先もずっと──」
彼はその先の言葉を紡ごうと口を開きかけて、しかしそっと噤んだ。わたしが不思議そうに彼を見ると、彼は少し寂しそうに
「いえ。気になさらないでください」
と、笑ったのだった。
〇
いよいよ試験の当日となった。
実はあの日以来、喫茶店には寄れていない。連日の予定が入ってしまい、なかなか時間が確保できなかったのだ。
(なんとか昼休みやスキマ時間を使って、苦手な分野の復習はしたけど……)
まとまった時間が勉強できていないせいか、焦る気持ちが募っていく。最後の足掻きとばかりにテキストを開いても、緊張のせいか頭に入ってこない。
(ああ、このままじゃ不合格かも……)
気持ちが沈みかけたその時。
(──そうだ。お茶を飲もう)
最後に喫茶店に行った日の、帰りのこと。マスターから「必要な時にお飲みください」と、
いつもの茶葉を分けてもらっていたのだ。集中力がアップする特製ブレンドのハーブティー。試験の前に飲もうと思って、自宅で淹れて持ってきた。
フタをあけるとハーブの落ち着く香りが広がり、あの喫茶店のことを思い出すことができた。紅茶を一口嚥下すると、みぞおちの辺りからじんわりとした温かさが身体中に広がる。
(美味しい……)
これなら、なんとか頑張れそうだ。
気を取り直していると、隣からすっかり耳慣れた声がした。
「あなたなら、きっと大丈夫ですよ」
思わず心臓が跳ねる。隣を向くと、そこにはあの彼が立っていた。喫茶店の外で姿を見るのは初めてだったので、どこか新鮮な感じだ。しかし見る人の心を溶かすような笑顔は、相変わらずだった。
「どうして──あ、そっか。会場まで同じになるなんて、偶然ですね!」
「……ええ。偶然ですね。あなたの姿を見かけて、思わず声をかけてしまいました」
「わたしもビックリです。でも、安心しました。あれから勉強できてなくて、合格できないかもって不安だったので」
彼の顔を見られて、気が緩んでしまったのだろう。試験の直前なのに思わず弱音が漏れてしまう。しかし彼は毅然と首を横に振った。
「大丈夫。あなたなら、きっと合格できます。あなたの頑張りは、私が保証します。誰よりも漢字を愛して、向き合ってきたんですから」
「ありがとうございます……」
勇気づけられてお礼を言うと、彼はふわりと笑った。
「お礼を言わなければならないのは、こちらの方です。ずっと愛してくれて、ありがとう。あなたが小さい頃に出会った思い出を、大切にしてくれてありがとう」
「え──」
「私もあなたを愛しています。だから、自信をもって行ってらっしゃい」
彼の声が次第に遠くへ離れていく。
待って。
彼を引き留めようと手を伸ばした先には、ただ人の波があるだけだった。
(──試験が終わったら、また会えるよね)
自分に言い聞かせながら、伸ばした手を胸に抱いた。まったく悲しくないと言ったら噓になる。しかしその時は不思議と、穏やかな気持ちに満たされていた。
〇
結局のところ、試験の後も彼と会うことはできなかった。彼と最後に言葉を交わしたとき、もう二度と会えない予感はしていたのだ。これから先も彼と会うことはないのだろうと、なんとなく思う。
でも漢字を見るたびに思い出すのだ。彼との思い出や、あの温かい眼差しを。いつかの『偶然』がまた巡るその時まで、わたしはきっと漢検を受け続けるのだろう。
~漢字検定編・完~
出典:
日本漢字能力検定公式ホームページ
https://www.kanken.or.jp/kanken/
漢字カフェ「漢字コラム12『主』ひとところに留まり、じっと動かず」
https://www.kanjicafe.jp/detail/7038.html#:~:text=%E3%80%8C%E4%B8%BB%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%83%A8%E9%A6%96%E3%81%AF,%E3%81%88%E3%83%BC%E3%81%A3%E3%80%81%E3%80%8C%E4%B8%B6%E3%80%8D%EF%BC%81
〔担当:アルバイトA〕
(日商簿記だよね。よし、頑張らなきゃ)
わたしは問題集と電卓を机の上に置き、勉強を始めた。早さと丁寧さが両方要求される簿記では、いかに問題に慣れるかが重要になる。とにかくたくさん解いて、間違えたところは反復練習だ。
(──あっ)
いつの間にか、ティーカップの中が空になっていた。
もうちょっと頑張りたいし、おかわりしよう。
そう思ってふいに顔を上げると、見知らぬ青年と視線が交わった。
「え」
いつの間にそこに立っていたのだろうか。青年は驚いているわたしに向かって「パチン」とウインクすると、
「追加のハーブティーでしょ? はい、どうぞ」
そう言って、机の上に置いてあるティーカップに紅茶を注いだ。
「あ……ありがとうございます」
(店員さん、かな。ビックリした……)
「ねえ。それってさ、日商簿記だよね」
「はい、そうですけど……」
「偉いね。さっきからずっとやってる」
「ありがとう、ございます」
なんだか距離が近い人だな。そう思っていると、彼は指を鳴らして
「あ、良いこと思いついた!
ソレ飲み終わるまで、ボクとおしゃべりしない?」
「え──いえ、勉強があるのでお断りします」
「ガビ~ン!」
(が、ガビ~ン……?)
「でも、せっかくの美味しいハーブティーなんだしさ。味わって飲んだ方が、幸せになれると思わない?」
「……。たしかに淹れてくださったマスターのためにも、味わいたいとは思いますけど」
「チガウチガウ。マスターもだけど、一番はキミの幸せのために」
「わ、わたしですか?」
「そうだよ。だって、キミのために淹れた紅茶だもん。飲んでる間くらい『幸せ!』って、思っててほしいじゃん?」
「……」
変な人だ。
でもきっと悪い人ではないと思う。わたしはペンを置いて、いつの間にか隣の席に座っている彼に向き直った。
「分かりました。でも、飲み終わったら勉強します」
「ウンウン、良い子! 勉強するときは勉強する。息抜きするときは息抜きする。これ人生の極意なり!」
「なんですかそれ……」
嬉しそうな彼を見ながら、湯気が立ち上る紅茶に口をつける。気づかないうちに張りつめていた緊張の糸が、解れていく感じがした。
「美味しい……」
「良かった! 味わって正解だったでしょ」
「はい。これ、あなたが淹れたんですか?」
「そうだよ。美味しく淹れるには、コツがあるんだ。簿記と通ずるよね」
「たしかに、コツさえ掴めば解けるという点では似てるかも……。──って、なんでわたしが簿記の勉強をしてるって知ってるんですか」
「ん~? キミから簿記のにおいがしたから、かな? まあ簿記で分からないことがあれば、ボクに聞いてよ。簿記マスターがなんでも答えてあげる!」
彼はそう言って、八重歯を見せて笑った。なんだか掴みどころのない人だけど、嘘をついてるわけじゃなさそう。
「分かりました。どうしても分からないところがあれば、質問します」
「ここら辺の美味しい料理屋さんとかも聞いてくれていいからね」
「はあ……」
「あとあと、面白い動画とか音楽も聞いてね! なんでも聞いて!」
「わ、分かりましたよ!」
なんて人懐っこい人なんだ。身を乗り出して迫ってくる彼を片手で押しのけながら、わたしは紅茶をぐいっと飲み干した。
「──紅茶、ごちそうさまでした! そろそろ勉強に戻ります」
「ウン、息抜き完了したね。じゃあ頑張って」
彼はわたしの頭をポンポンと撫でると、席を立って店の奥へと消えていった。
(変わった人だったな……)
そう思いながら、わたしは再び問題集に向かう。しっかり休憩を挟んだおかげか、さっきより集中できている気がした。
(もしかして、このことを見越して……? いや、まさかね)
結局、その日はいつも以上の早さで勉強を進めることができたのだった。
〇
次の日の夜。
(──また来てしまった)
わたしは、またもや昨日と同じ喫茶店の前に立っていた。あの変な人のせいで、あまり捗らなかったのに。いや、むしろ捗ったっけ。だって紅茶がすごく美味しかったし。
心の中で言い訳しながら、わたしは店内へと入った。
「いらっしゃいませ。おや、またのご利用ありがとうございます」
「ハーブティーが美味しくて、また来ちゃいました」
「それはそれは。では、お好きな席にお掛けください。メニューは前回と同じものでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
店内をザっと見回したが、あの人は見当たらない。
(今日はいないのかな……。いや、いてほしいわけじゃないけど)
わたしは席につくと、問題集を広げた。マスターから淹れてもらった紅茶を一口飲めば、頭はみるみる冴えわたる。
(さあ、今日も勉強するぞ)
ラストスパート頑張らなきゃ! そう意気込んで、数十分後。
(うう……。この分野、苦手なんだよね)
行き詰ったわたしの手は、すっかり止まってしまっていた。
(もうここは諦めて、得意なところを勉強しようかな……)
誰だって苦手な分野より、得意な分野を勉強したいものだ。ここは捨てて、今できるところを伸ばそう。そう思って問題集のページをめくろうとした時だった。
「そろそろ息抜きの時間じゃないかな」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこに立っていたのはあの人だった。
「え……」
「さっきからずっと同じところで止まってる。そろそろ休憩しよ?」
口の端からチラリと覗いた八重歯に思わず安心してしまったのは、きっと気のせいだろう。
「う……。はい、分かりました」
わたしが頷くと、彼は
「ウン、良い子。良い子にはご褒美をあげる」
そう言ってわたしの前に皿を置いた。
「これは──サンドイッチ?」
「そう、ボクからの差し入れ。一口サイズだから勉強しながらでも食べられるし、糖分も補給できるよ」
「ありがとうございます……」
「本当はおしゃべりしながら食べたいんだけどね。ねえ、お茶くらいはゆっくり飲んでも良いでしょ?」
「……はい。多少の休憩は、効率化にも繋がりますから」
「良かった。いっぱい休んで、いっぱい勉強! 子どもはそれが一番だからね」
(子どもって、わたしのこと何歳だと思ってるんだろう)
首を傾げながら、わたしはサンドイッチに手を伸ばした。安心したらお腹がすいてしまったのだ。指先でつまめるサイズのそれは丁寧に作られていて、彼が心を込めて作っている様子がありありと想像できた。
「──あれ、これって……」
「鮭フレークサンドだよ。具は鮭フレークにマヨネーズを和えたやつ。鮭は栄養にも美容にも良いからさ」
「へえ~。鮭フレークのサンドイッチなんて、初めて見ました」
「『平家・法華経・昆布・鮭』ってね」
「……なんですか、それ」
「捨てるところがないもの、って意味。鮭は内臓も皮も骨も、ぜんぶ使えるからね!」
「捨てるところがない……」
「ねえ、食べてみて?」
彼に促されて、サンドイッチを口に入れた。濃厚なマヨネーズと鮭の塩気が程よく合わさり、疲れた身体に沁みる。
「うん。ちょっと癪ですけど、美味しいです」
「素直に美味しいって言ってよ~! でも良かった。疲れてると思って、ちょっと濃いめの味付けにしたんだ」
「そんなことまで考えて……。もしかして、将来は調理人になりたいんですか?」
「調理人かあ。キミ専属の調理人になら、なってみたいカモ?」
そう言いながら彼は、わたしに向かって「パチン」とウインクをした。わたしはため息をついて、
「そういうおちゃらけたところさえなければ良いのに……」
「え~! そこがボクの魅力なのに!? ボクに捨てるところなし、だよ!」
「ふふっ、はいはい。そうですね」
思わず笑うと、彼は一瞬驚いた顔をした。しかしすぐさま顔を綻ばせて、
「……笑ってくれて良かった」
その笑顔は、いつも見せる表情よりずっと艶やかで、わたしの胸はギュッと締め付けられるように苦しくなった。
「──も、もう休憩終わり! 勉強するので、あっち行っててください」
「ちぇ~。じゃあ頑張ってね。なにかあったら呼んで、すぐ駆けつけるから!」
「呼びません!」
なるべく彼の顔を見ないようにしながら、わたしは問題集に向き合った。
そうだ、こんなことをしている場合じゃない。試験も近いんだから、ちゃんと対策しなきゃなんとかペンを持ったところで、わたしはふと手を止めた。
(そっか。簿記も同じだよね……)
簿記も、鮭と同じ。鮭に捨てるところがないように、簿記にも、捨てるところなんてない。苦手な分野も得意な分野も、まんべんなく分かるようにしておくことが大切なのだ。でもわたしは勉強が辛いからって、苦手なところを捨てようとしてた。
(──逃げないで、頑張ろう)
さっき間違えてしまった問題にもう一度チャレンジするため、わたしは問題集のページをめくった。
〇
いよいよ試験の当日となった。あれから喫茶店に通いつめ、彼の手厚いサポートを受けながら勉強したわたしに死角はない。どんな分野から出題があっても、ある程度は答えられるという自信はあった。
(あんなに頑張ったんだから、大丈夫。そう思いたいけど──)
わたしは震える手を自らギュッと抑えた。緊張のせいで、手足から血の気が引いていく。このままじゃ不合格になっちゃうかも。
気持ちが沈みかけたその時。
(──そうだ。お茶を飲もう)
最後に喫茶店に行った日の、帰りのこと。彼から「試験前に飲んでね」と、いつもの茶葉を分けてもらっていたのだ。集中力がアップする特製ブレンドのハーブティー。試験の前に飲もうと思って、自宅で淹れて持ってきた。
フタをあけるとハーブの落ち着く香りが広がり、あの喫茶店のことを思い出すことができた。紅茶を一口嚥下すると、みぞおちの辺りからじんわりとした温かさが身体中に広がる。
(美味しい……)
これなら、なんとか頑張れそうだ。気を取り直していると、隣からすっかり耳慣れた声がした。
「緊張してる時こそ、笑顔だよ!」
「えっ──」
思わず心臓が跳ねる。隣を向くと、そこにはあの彼が立っていた。喫茶店の外で姿を見るのは初めてだったので、どこか新鮮な感じがする。しかし掴みどころのない笑顔は、相変わらずだった。
「な、なんでここに!?」
「もちのろん、キミのことを応援するために来たんだよ! キミが緊張で泣いてるかなって思ってさ。ボクってば、ヒーローだからね!」
「な、泣いてないです。泣いてないけど……少し不安だったので、あなたの顔が見られてホッとしました」
思わず漏らしてしまった弱音に、彼は太陽のような笑顔を浮かべた。
「そうだよね、不安だよね。でも、キミならきっと大丈夫! ずっと近くで見てきたボクが言うんだから、間違いないよ」
「……ありがとう」
そう言うと彼は、少しだけ寂しそうに瞳を細めた。
(え──)
「大丈夫。なにがあっても、どこにいても、ボクはキミの味方だから」
彼の声が次第に遠くへ離れていく。
待って。
彼を引き留めようと手を伸ばした先には、ただ人の波があるだけだった。
(──試験が終わったら、また会えるよね)
自分に言い聞かせながら、伸ばした手を胸に抱いた。まったく悲しくないと言ったら噓になる。しかしその時は不思議と、穏やかな気持ちに満たされていた。
〇
結局のところ、試験の後も彼と会うことはできなかった。彼と最後に言葉を交わしたとき、もう二度と会えない予感はしていたのだ。これから先も彼と会うことはないのだろうと、なんとなく思う。
でも簿記を見るたびに思い出す。彼が作ってくれた料理の味や、あのふざけたやり取りのことを。いつかまた彼と巡り会えるその日まで、わたしは簿記を勉強し続けるだろう。
~日商簿記編・完~
引用:
日本商工会議所公式サイト
https://www.jcci.or.jp/
簿記検定試験合格への5カ条
https://www.kentei.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2015/03/gokaku5.pdf
公益財団法人「海洋生物環境研究所」
https://www.kaiseiken.or.jp/umimame/umimame61.html
〔担当:アルバイトA〕
(TOEICだよね。よし、頑張ろう)
わたしは机の上にテキストを広げた。
ひと通り問題を解いたら、答え合わせ。分からない単語があったら意味を調べて、ノートにまとめる。はじめこそ集中できていたが、そんな作業を延々と続けていると、どうしても飽きてくる。
(ちょっと疲れてきた……。でも、もうちょっと勉強しなきゃいけないしなあ。そうだ、動画でも見ながらやろうかな)
動画サイトで面白い動画を流し見しながらやれば、気が紛れるだろう。
「ねこちゃんの動画にしよっかな~」
そんなことを言いながら、スマートフォンとイヤホンを取り出したその時。
「効率が悪い」
「え──」
隣からピシャリと、冷たい声が投げられた。
「動画やテレビを見ながらの勉強は、脳に負荷をかけ学習効率を下げる最悪の行動だ。やめなさい」
「えっ? は、はい……」
おそるおそる横を向くと、さっきまで誰もいなかったはずの席に、男の人がひとり座っていた。シワひとつないネイビーのスーツに身を包み、チタンフレームのメガネをかけている。
(なに、この人)
ふつー、たまたま喫茶店で隣り合った客に話しかける?
ちらちらと様子を伺っていると、レンズの奥の鋭い目がこちらを睨んだ。
「勉強の効率を上げるには、適宜休憩を挟むことがもっとも好ましい。さらに休憩の際の行動としては、軽いストレッチなどが適している。身体の血流を良くすることで、脳にも良い影響があるからだ」
「は、はあ……」
「休憩はただ休むためのものでなく、次の勉強をより効率的に行うためのものだ。間違っても動画を見たり、SNSに興じるための時間ではないぞ」
「ぎくっ……!」
こっそり冷や汗を流していると、彼は突然立ち上がった。そしてすぐに「お前も立て」と言わんばかりの視線を向けてくる。
「さあ、ストレッチの時間だ。次のセクションまで、あと3分しかないぞ」
「え」
「まず背筋を伸ばして、深呼吸だ。お腹を膨らませて、身体全体に酸素を行きわたらせるイメージ! 明確なイメージをもって行動することが大切だ。次に首と肩をまわす! 背筋は肩甲骨を寄せるイメージでピンと!」
「ええ……!? こ、こうですか!?」
「よし、合格だ。続いて、全身を使ってジャンプ! 大地を蹴って飛び立つイメージ!」
「ジャンプ!? いや、ここ喫茶店ですよ!」
「勉強の質を上げるためなら、場所を厭うな! ジャンプ!」
「ええ……じゃ、ジャンプ!」
「ジャンプ!」
「ジャンプ!」
それから彼の許可が下りるまで、わたしは延々とストレッチをさせられる羽目になった。休憩どころじゃないわたしを前にして、彼はメガネのフレームを直しながら
「よし。じゅうぶんリフレッシュできただろう。集中力も再び持続するはずだ」
と、涼しげに言ったのだった。
「あ、ありがとうございます……」
「勉強と休憩のバランスには、個人差がある。自分の最適なリズムを知り、ルーティン化することが大切だ」
「は、はあ……」
「きみが今勉強しているのはTOEICだろう。TOEICは、ただ闇雲に英単語を覚えているだけではスコアアップできない。キチンと目標スコアを定め、そこに向かってどんな努力するべきなのか、具体的に計画を立てるべきだ」
「へ、へえ……」
「キミの目的は?」
「えっ──」
「目的があるから勉強しているのだろう」
いきなりの問いに、わたしは答えられず言いよどんだ。なんとなく高い点数が取れればそれでいいかな、と思って勉強してきたから。
すると、彼は大きなため息をついた。
「まさか──なにも考えずに勉強していたのか?」
「だ、だいたいの目標だったらありますよ」
しかし彼は首を横に振って、
「だいたいではダメだ。何事も具体的なイメージを持たないと、意味がない。そんな基本的なこともできていないから、スコアが伸びないだのと文句ばかり言って、結局成長できないんだ」
正論のパンチが、わたしにボディブローを食らわせていく。
(たしかに言ってることは正しいのかもしれない。けど……初対面の相手に対して、なんなのこの人!)
わたしが怒りを抑えていると、彼から極めつけの一言が放たれた。
「はっきり言って、時間の無駄だ。今のままなら勉強しない方が良い」
彼はメガネのブリッジを押し上げながら、わたしに冷ややかな視線を浴びせた。その言葉で我慢の限界を迎えたわたしは、思わず言い返した。
「わたしだって、頑張りたいって思ってます」
「だから、そういう漠然とした目標設定では──」
「分かってる! あなたが今言ったこと全部、正しいって分かってます! でも言い方ってものがあるでしょ。会ったばかりの人にボロクソ言われたら、そりゃ怒りたくもなりますよ」
感情のままに怒りをぶつけると、彼はぽかんとした顔で固まっていた。間抜けな表情が見られて、少しだけ鼻をあかしてやったような気分だ。そんな彼をよそにわたしはサッと帰り支度をすると、
「すみません、疲れたので帰ります。お疲れ様でした」
そう言って喫茶店を後にした。
〇
次の日。
(……なんでまた来ちゃったんだろう)
わたしは昨日と同じ喫茶店の前に立っていた。
(あの人、今日もいるかなあ……)
やや緊張しながら店の扉を押す。入った瞬間、冷えた身体にじんわりと染み入るような温かさに包まれた。
「いらっしゃいませ。またのご利用ありがとうございます」
「ハーブティーが美味しくて、また来ちゃいました」
「お好きな席にお掛けください。メニューは前回と同じものでよろしいですか?」
「はい、お願いします!」
初老のマスターに迎えられながら、わたしは店内を見回す。
(──良かった。あの人はいないみたい)
胸を撫でおろしつつも、昨日のことへの罪悪感が小骨のように引っかかった。
(悪いことしちゃったな……)
あの人の言うことが間違っていないのは分かるでもあの時は感情的になってしまって、思わず乱暴にしてしまった。
(とにかく今は、勉強に集中しよう)
気持ちを切り替えようと、わたしは机にテキストを広げた。
数十分後。
(ハーブティー飲み終わっちゃったし、おかわり頼もうかな……)
空になったティーカップに気がついたわたしは、ふいに顔を上げた。
「すみませ──」
言いかけて、思わず息が止まる。わたしの視線の先にいたのは、昨日の彼だった。その表情は心なしか、しおらしい。彼はわたしと目が合うと、すぐにバツが悪そうに視線を伏せた。
「……昨日は、すまなかった」
そう言うと彼は、手の中に持っていたマグカップをわたしの前に置いた。
「──わあ、ネコだ! かわいい!」
ネコの形をしたマシュマロが、カフェオレの中に浮かんでいるまるで雲みたいにふわふわした見た目のそれに、わたしは気まずさも忘れて無邪気に喜んだ。
「へえ~、こんなのあるんですね! すごい!」
「まあ。探したからな」
「わざわざ探してくれたんですか? ふ~ん」
嬉しい。そして理屈っぽい彼のことだから、きっとまたカフェオレにまつわるウンチクが飛び出すんだろう。言われる前に聞いてやれと、わたしの方から話を振った。
「勉強中の飲み物って、紅茶よりコーヒーの方が良いんですか?」
「カフェインの含有量で言えば、コーヒーの方が多い。しかし紅茶には集中力アップの他、リラックス効果もあるから、長く勉強する場合には紅茶が良い」
「……じゃあ、なんでカフェオレなんですか?」
「それは──」
彼は少し言いよどんで、しかし真っ直ぐとわたしの目を見た。
「きみが、喜ぶと思ったから」
「えっ?」
「きみは以前、ネコが好きだと言っていた。だから、これを見ても喜ぶだろうと予想した。──実際、俺の予想どおりの反応だった」
「……つまり効率とか関係なく、わたしの好みで選んでくれたってことですか?」
「ああ、そうだが」
指先でメガネのつるを弄る彼の視線は、どこか落ち着きがなかった。理屈ばかりで人の気持ちが分からないんだと思ってたから、驚きだ。
「へえ……」
「な、なんだよ」
「正直な気持ち、言っても良いですか?」
「どうぞ」
「すっごく嬉しいです。今までもらったどのアドバイスより、やる気が出ました!」
すると彼はふっと目元を綻ばせた。
「そうか。良かった」
「──わたしも、すみませんでした。言われたときは腹が立ちましたけど、わたしのために言ってくれたことですもんね」
「分かればいい」
「あれから目標とか考えたんです。でも正直言って、具体的なことはまだ思い浮かばなくて……。だけど、勉強自体をやめるつもりはないです。目的は勉強しながら見つけます」
わたしの言葉に、彼は深く頷いた。
「なるほど。分かった。ならば、俺と共に見つければいい」
「ありがとうございます。でも、なんでわたしなんかに色々教えてくれるんですか。もしかして学校の先生とか?」
「そんなところかな。さて、とはいえ俺の指導は厳しいぞ。ついてこられるか?」
レンズの奥の瞳が挑戦的に光る。
「望むところです!」
そう意気込むと、わたしはテキストに再び向き直ったのだった。
「ちなみに余談だが、TOEICの公式サイトには『目標設定お助けツール』というものがあり、自分の現在のスコアと目標スコアを入力すると、なにが足りていないのか分析してくれるという非常に便利なツールが公開されている。これを活用するのもひとつの手だな」
「へえ~! 知らなかったです」
「さらに! 目的から目標スコアを逆算することもできる! どうだ、じつに素晴らしいサーヴィスだろ。きみのような人間にもTOEICは優しいんだ」
「はいはい、そうですね。TOEIC大好きになりました」
「……!」
「さて、じゃあ早速勉強を──あれ、どうしたんですか? 怒りすぎて顔真っ赤ですけど」
「い、怒りのせいではない! まったくきみはいつも──」
(なんかブツブツ言ってるけど……ま、いいか)
わたしは今度こそテキストに向き直ったのだった。
〇
いよいよ試験の当日となった。あれからわたしは、彼の厳しい指導を受けて毎日勉強した。なんとか具体的な目標も設定したし、あとはそこに向かって実力を出すだけだ。
(ふう……。あれだけ厳しいのを乗り越えたんだもん。きっと大丈夫だよね)
自分に言い聞かせるが、やはり本番の空気感では緊張する。
(──そうだ。お茶を飲もう)
最後に喫茶店に行った日の、帰りのこと。マスターから「必要な時にお飲みください」と、いつもの茶葉を分けてもらっていたのだ。集中力がアップする特製ブレンドのハーブティー。試験の前に飲もうと思って、自宅で淹れて持ってきた。
フタをあけるとハーブの落ち着く香りが広がり、あの喫茶店のことを思い出すことができた。紅茶を一口嚥下すると、みぞおちの辺りからじんわりとした温かさが身体中に広がる。
(美味しい……)
これなら、なんとか頑張れそうだ。気を取り直していると、隣からすっかり耳慣れた声がした。
「緊張に効くツボを教えてやろう」
「えっ──」
思わず心臓が跳ねる。隣を向くと、そこにはあの彼が立っていた。喫茶店の外で姿を見るのは初めてだったので、どこか新鮮な感じだ。
しかし、レンズの奥の鋭い瞳と仏頂面は相変わらずだった。
「ど、どうしてここに……! ストーカーですか?!」
「失礼だな、そんなわけあるか。これまでの行動から推測して、きみは土壇場で実力を発揮しきれない人間だと思った。だから『いつも通り』を思い出させるために、来た」
「たしかに、その通りですけど……。わざわざ応援しに来てくださってありがとうございます」
「その通り。俺がわざわざ応援しに来たんだ、頑張れよ」
「はい!」
「ふ──いい返事だ」
珍しい彼の笑顔に、わたしの緊張まで解れていく気がした。そのことが彼にも伝わったのだろう。彼は安心したように目元を綻ばせて、頷いた。
「きみは随分、成長したよ。俺が言うから間違いない。今の苦しい時間は、きみの未来をきっと輝かせる。自分を信じて行ってきなさい」
(え──)
彼の声が次第に遠くへ離れていく。
待って。
彼を引き留めようと手を伸ばした先には、ただ人の波があるだけだった。
(──試験が終わったら、また会えるよね)
自分に言い聞かせながら、伸ばした手を胸に抱いた。まったく悲しくないと言ったら噓になる。しかしその時は不思議と、穏やかな気持ちに満たされていた
〇
結局のところ、試験の後も彼と会うことはできなかった。彼と最後に言葉を交わしたとき、もう二度と会えない予感はしていたのだ。これから先も彼と会うことはないのだろうと、なんとなく思う。
でも英語を見るたびに思い出すのだ。彼との思い出や、あの厳しくも優しい叱責を。いつかまた彼と巡り合うその時まで、わたしはTOEICを受け続けるのだろう。
~TOEIC編・完~
出典:
TOEIC公式ホームページ
https://www.iibc-global.org/toeic.html
TOEIC『目標設定お助けツール』
https://www.iibc-global.org/toeic/special/target.html
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